円福寺について

歴史・文化財や宗旨のご紹介と、各種ご案内

円福寺の沿革

亀井山 円福寺(かめいざん えんぷくじ)
正式には、龜井山 圓福寺(きせいざん えんふくじ)
名古屋ではめずらしい時宗の寺院です。
(時宗は浄土西山義の流れをくむ一遍上人が宗祖)
熱田に水道敷設前は、境内の「亀井の水」で知られていたため、地元では寺号より「かめーざん」と山号で呼ばれていました。


概略


平安初期、伝教大師最澄によって熱田台地南端の波打ち際に建てられた毘沙門堂が、円福寺の礎となりました。
鎌倉時代後期には、比叡山の僧であった厳阿(ごんな)上人によって浜辺が築地され、円福寺の境内地が造られます。境内に向かう下りの石段は、かつて浜辺であった地形の名残です。
後に、足利氏の一族であった厳阿上人の縁により、足利尊氏が円福寺を祈願所として大規模な寄進を行い、境内地がさらに三町余(約3ha余り≒大阪ドーム程)築地されて堂宇が整いました。
当初、円福寺は天台宗の寺院でしたが、厳阿上人が時宗二祖真教上人に帰依した時より、時宗寺院となりました。


平安初期

大同元年/延暦二五年(西暦806年)

比叡山の伝教大師(最澄)は、桓武天皇の勅命により、熱田神宮に百日間の参篭をした。
その折、熱田神宮に大黒天像を奉納し、洲崎の浜に毘沙門天を祀る御堂を建立する。
「洲崎の浜」とは、現在の圓福寺境内を含む、熱田神宮の南にあった浜辺で、この『洲崎の毘沙門堂』が圓福寺の基となった。
近世まで三度の大火があった圓福寺だが、その度に毘沙門堂は再建され、昭和二十年の熱田大空襲で一帯が壊滅するまで、往時の名残をとどめていたという。(現在、毘沙門天は圓福寺本堂内に安置)

鎌倉期

西暦1300年頃~

比叡山の僧厳阿は、洲崎の毘沙門堂に移り住み、伽藍の建立を発願して付近の海辺を築地しようと試みたが、波が荒くたいへん困難であった。
そこで厳阿は熱田神宮に千日間社参して、築地と伽藍建立の願いを成就させたという。
そして、この伽藍に、熱田神宮より伝教大師所縁の大黒天を迎えて安置し、「毘沙門・大黒の二体 まどか(圓)なる幸いといへる心にて(圓福寺縁起より)」、この伽藍を圓福寺と名づけた。(当初は天台宗の寺院であった)

山号『亀井山』の由来

圓福寺縁起によれば、厳阿上人が井戸を掘らせたところ、亀甲に似た大きな岩盤に当たり「霊泉湧き出す 清きこと水晶を見るごとく」とあり、これが『亀井』の山号の由来となった。その水質の良さから、熱田に水道が敷設されるまで、近隣の人々は亀井の水を汲みによく来山したという。また、この井戸に馴染んだ人々は、圓福寺を寺号より「亀井山」の山号で呼ぶ場合が多かった。
なお、熱田は巨大な亀の上の「蓬莱島」であるという伝説が古くからあり、この近辺では山号に亀の字を用いる寺院が多数ある。

真教上人と時宗への改宗

時宗の二祖である他阿真教上人が遊行※の途次、圓福寺に留錫される。このとき厳阿上人は真教上人に「御対面問答あって帰依したまひ 時宗門にいりたまふ(圓福寺縁起より)」と伝えられ、これより天台宗寺院から時宗の寺院になる。
なお真教上人とは、時宗の宗祖一遍上人の弟子で、全国各地を遊行するとともに、時宗を教団として確立した。
真教上人については次のようなエピソードもある。
徳治二年(一三〇七年)、真教上人が平将門の首塚を訪れた時、周辺は将門の祟りで荒れ果てていた。そこで上人は塚を修復し「蓮阿弥陀仏」の法名を授けて供養したところ祟りが治まったという。後に将門の御霊は真教上人によって神田明神に合祀された。東京丸の内の将門塚には、真教上人筆の名号を刻んだ碑が立てられている。

※遊行(ゆぎょう) 修行や布教のため諸国を巡ること

元応元年(西暦1319年)

足利氏の一族であった厳阿上人の縁により「足利尊氏御帰依によりて坊舎数十宇御建立(圓福寺縁起より)」と記録されており、境内地としてさらに三町余を築地して堂宇が整った。
江戸初期の熱田古地図によれば、圓福寺は当時の熱田神宮境内地と同程度の境内を領し、塔頭寺院十箇寺が記録されている。

室町期

延文五年(西暦1360年)

厳阿上人、京都四条の時宗大本山金蓮寺住職に転進され、三代浄阿上人となる。
(後に時宗の本山は統合され、現在は藤沢の遊行寺が本山)

応安三年(西暦1370年)

厳阿上人遷化。
和歌や連歌に長けた厳阿上人が圓福寺住職の頃に詠んだ歌は、勅撰和歌集『新後拾遺和歌集』の中にも収められている。

あつたの亀井の寺に住侍りけるときあまたよみ侍りける
歌の中に浜千鳥を  厳阿上人
鳴海がた 夕浪千鳥立帰り 友呼続の浜になくなり

永和三年(西暦1377年)

熱田神宮権宮司田島仲宗の所望により、圓福寺二代厳阿上人が仲介をして、京都四条本山金蓮寺四代浄阿上人が『日本書紀』十六巻を神宮に奉納する。
この『日本書紀』は料紙に和歌懐紙が使われており、懐紙には二代厳阿や金蓮寺僧侶らと、紀盛家・伴周清・藤原秀繁や『新後拾遺集』の撰者である藤原為重などの公家の歌に加え、無名の歌人達も多く歌を詠んでおり、卜部家系日本書紀写本としてだけでなく、当時の和歌に関する資料としても貴重である。
なお、この『日本書紀(紙背和歌懐紙)』(国重要文化財・熱田神宮蔵)は、熱田神宮宝物館で各巻が順次交替で公開されており、実物を見ることができる。

永享四年(西暦1432年)

将軍足利義教は富士遊覧の帰途、圓福寺に九月十三日より三日間逗留し『百韻連歌』の会を催した。
その時の『連歌懐紙』(愛知県文化財)は現在も圓福寺に保存されている。
なお、熱田神宮に現存する応永三十年(西暦1423年)の『百韻連歌』をはじめ、慶長末ごろまで、熱田神宮の法楽連歌・和歌の会に円福寺僧が参加・主催した記録が残されている。

文明年中(西暦1469~)

圓福寺火災炎上。
記録に「当方旦方橋本盛正」(圓福寺縁起)により再建されたとある。

永正年中(西暦1504~)

圓福寺火災炎上。
記録に「橋本盛正の孫正吉」(圓福寺縁起)により再建されたとある。

永正一五年(西暦1518年)

織田達勝から、圓福寺境内での乱暴狼藉・陣執などを禁ずる旨の禁制を与えられる。署名は藤原達勝。(熱田圓福寺文書)

永禄六年(西暦1563年)

織田信長より寺領安堵・諸役免除の書を受ける。
なお圓福寺文書には他に、織田家重臣であった佐久間信盛、織田四天王の一人として知られる丹羽長秀や、桶狭間で今川義元の首をあげた毛利良勝等からの書状類もみられる。

江戸期

慶長九年(西暦1604年)

『言経卿記』(山科言卿)や『慶長日件録』(船橋秀賢)等によると、冷泉為満は圓福寺塔頭の宿坊に逗留し熱田神宮に社参した。
この時行われた『熱田社法楽和歌』には為満と共に圓福寺住僧の名も記されている。

承応二年(西暦1653年)

圓福寺火災炎上
再建費用を賄うため、境内で芝居興行が行われる。女形の祖といわれる右近源左衛門の歌舞伎興行などが評判となった。
他の芝居地に先がけ、明暦二年(1656年)に尾張藩より芝居興行が免許される。
以後、明治初年頃に至るまで、尾張藩公認芝居地「亀井道場」として長きにわたって親しまれた。

近代~

昭和二十年(西暦1945年)

予め郊外へ疎開させていた一部の文化財を除き、熱田空襲により堂宇全てが焼失する。
終戦後は、都市計画により境内地も大幅に縮小された。

昭和三十年(西暦1955年)

戦前のおよそ二分の一の規模で本堂を再建。境内の整備を繰り返しながら現在に至る。


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