文化財など
近世に至るまでに三度の大火、そして熱田空襲による壊滅的な被害を経て、多くのものが失われてしまいましたが、今も円福寺に残る仏様や文化財を一部ご紹介します。
前立ち本尊
阿弥陀如来。年代不詳。室町期かと推定されます。
僅かに左足を踏み出しながら来迎印(摂取不捨印)を結び、臨終の際に浄土から迎えにおいでになる姿を表しています。
一木で造られており、衣の襞や端正な立ち姿の表現は、繊細でありながら力強く見事です。
本尊
阿弥陀如来。年代不詳。
開山以来の秘仏とされ、今まで一度も開帳されてきませんでした。
檀家さんでも、そこに安置されていることをご存知の方が少ないようですが、前立ち本尊背後の壇に御厨子があります。
円福寺中興七百年を迎える平成31年(2019年)に御開帳予定です。
厳阿上人像
延文年間(室町初期)、厳阿上人が京都四条の大本山金蓮寺に移られるときに像が彫られましたが、空襲によって像の大部分は焼失しました。
空襲の火災の中、先々代住職が抱えて避難させた像の頭部のみが焼失を免れ、胴の部分は戦後に造り直されました。
本堂横の開山堂に安置されています。
毘沙門天像
四天王の一つとして安置されるときは多聞天とも呼ばれます。
製作年代は不詳ですが、円福寺最初期に伝教大師が建立された毘沙門堂に由来すると伝えられます。
戦後は本堂内に安置されてきました。(前立ち本尊に向かって左側の厨子)
大黒天像
毘沙門天像と同様に伝教大師の所縁とされ、熱田神宮に奉納された後、厳阿上人によって円福寺に迎えられたと伝えられます。
一歩前に踏み出した「踏み込み(踏み出し)の大黒天」として『尾張名所図会』や『張州雑志』にも記述がみられます。
本堂内に安置されています。(前立ち本尊に向かって右側の厨子)
一遍上人像
時宗の開祖である一遍上人(証誠大師)像です。
製作年代の詳細は不明ですが、長きにわたり円福寺に伝えられてきました。
この像を正確に写したレプリカが名古屋市博物館で常設展示されています。
真教上人像
一遍上人の弟子で、二代遊行上人。時宗を教団として確立されました。
円福寺初代厳阿上人は、遊行の途次に円福寺に留錫した真教上人との出会いを契機にして、円福寺を天台宗から時宗の寺院へと改めました。
十一面観音像
『張州雑志』や『蓬州旧勝録』等の地誌によれば、この観音像はもともと熱田四観音の一つで、高蔵宮傍のお堂に安置され「沢観音」と呼ばれていました。沢観音妙安寺建立の際、新たに七観音を安置したため、もとの観音像は円福寺に預けられて今に至ると記されています。
『蓬州旧勝録』には行基所縁、『尾張名所図会』では白山を開山した泰澄和尚所縁とも記されており、記述内容の正誤や由来の詳細は不明な部分も多いのですが、時代的にはたいへん古いものと思われます。
尾張円福寺文書
県指定文化財。室町~織豊期。
織田信長はじめ、織田家重臣であった佐久間信盛、織田四天王の一人として知られる丹羽長秀や、桶狭間で今川義元の首をあげた毛利良勝等からの書状類です。
織田達勝制札
永正15年(1518年)。尾張下四郡の守護代織田達勝による木の制札です。
円福寺境内での乱暴狼藉・陣執などを禁ずる旨の禁制が記されています。
藤原達勝の署名が注目されます。県指定文化財。
永享四年連歌懐紙
室町幕府六代将軍足利義教公が富士御覧の途次に、円福寺で催した連歌の会で使われた懐紙。
金銀泥で下絵が描かれた豪華な料紙を使用しています。
県指定文化財。室町期。
紙本墨画豊干禅師図
室町期。伝小栗宗湛筆。県指定文化財。